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アニメや本についての雑記です。オタクが書いてます。

君の名は。考察 なぜ入れ替わった相手は瀧くんだったのか? 切断と結びの主題

  • 産霊の主題

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「産霊は土地の氏神様。この言葉には深い意味がある。糸をつなげることも結び。人をつなげることも結び。時間が流れることも結び。」

作中でお婆さんから語られる話の数々は、どれも示唆に富んでおり暗示に満ちている。

例えば、「産霊は時間の流れそのもの。寄り集まって形を作り、ねじれて絡まって、時には切断されて、また繋がる。それが産霊。それが時間」このセリフは瀧と三葉、2人の人格が入れ替わり、3年の時間が混線し、切断され、再び結ばれるというお話全体の構造を暗示するものである。

ここに示される産霊-結びは人の繋がりであり、時間の流れであり、更には作品の主題でもある。以下、”結び”そしてその対となる”切断”から君の名は。の二人の主人公について考えて行きたい。

 

  • ”結び”と”切断”

”結び”と”切断”のモチーフは、作品全体に通底するテーマになっている。”結び”は関係の原理、すなわち母性原理、女性的なアニマの象徴である。対して、”切断”は裁断の原理、すなわち父性原理、男性的なアニムスを表す。 この対となる二つの属性は、本作の主人公である三葉と瀧の二人それぞれに分け与えられたものだ。つまり、三葉の持つ属性が”結び”で、瀧の持つ属性が”切断”である。

例えば、作中で瀧くんと奥寺先輩がデートするシーン。

三葉は瀧と奥寺先輩のデートの約束を勝手に結ぶ。(結び)

ところが瀧はデート中、奥寺先輩との会話をうまく続けられず、途切れ途切れに喋ってしまう。(切断)

三葉はそんな時のためにと、会話のハウツー、彼女の作り方、みたいなサイトのリンク集を瀧のために用意している。これらの内容はどれも人との関係、繋がりに関わるものである。(結び)

更に、linkという英単語の意味する所はーそう、”結びつけるもの”なのである。(weblioで調べた)

こんな具合に、”結び”と”切断”のモチーフは作中のあらゆる所に散りばめられている。

隠れミッキーを探すが如く、映画の中で”結び”と”切断”を探してみる観方も楽しいかもしれない。

デートの舞台がスカイツリーという場所であったことにも注目したい。スカイツリーの意味するところは空であり天である。天は父性原理と結びつくものであり、瀧の属性を暗示していると思われる。

デート中に『郷愁』というタイトルの写真展に立ち寄るシーンがある。瀧が飛騨の山の写真を偶然に見かけるところだ。このシーンでは、東京という場所そのものが、田舎から旅立って分離された人々の集まった場所、つまり”切断”された場所であることが示されているように思う。 

さて、瀧の持つ”切断”と三葉の持つ”結び”は、互いに入れ替わった身体の中でも発揮されていく。まずは、三葉の視点で追っていきたい。

 

  •  三葉と”結び”

 

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三葉の”結び”の属性は髪の毛を編んで、組紐で結ぶシーンによく表されている。編む、組紐、結ぶなどのモチーフが意味する所は一つである。”結び”だ。 

一方で三葉は、町長の父との確執、巫女としてのしきたり、人々の近すぎる距離感、噂話__これらに代表される田舎の暮らし、つまり”結び”にどこか息苦しさを感じていて、東京への憧れを胸に抱いていることも示される。そして、三葉の願いを体現するかのように入れ替わりが起こるのだ。

三葉と入れ替わった瀧の行動を追っていきたい。以下、三葉(瀧)と書く。

三葉(瀧)は、カフェづくりのためにノコギリで丸太を切断する。町長選挙の噂話の中で、キレて机を蹴る。これは、教室内の嫌な流れ、空気を断ち切ったのだと考えられる。その後の不敵な目線もメンチを切ってる(切断)と言えなくもなくもない。

 

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三葉(瀧)がとったこれらの”切断”の行動は、周囲の驚きの反応を伴って描かれる。それは、以前までの”結び”の三葉の行動とは対照的だからだ。 

ここで、三葉(瀧)の取った三葉とは正反対な行動の数々について、もともと三葉が秘めていた潜在的な願望の反映でもあったとは考えられないだろうか。

三葉の東京への憧れには、三葉が”結び”に息苦しさを感じ、ここではないどこかや自分にはない何かーすなわち”切断”を求める想いが、多分に投影されていたと考えられる。

恐らく三葉は、心の中で誰よりも”切断”の力を求めていた。

入れ替わった相手がなぜ瀧だったのかという疑問がある。これは、三葉にとって瀧くんが、自分には無い力、つまり”切断”を持った存在だったからだと考えられる。三葉は自身の”結び”を補償するものとして”切断”の力を求めていた。三葉(瀧)のとった行動は、三葉にとって正反対の方向に実現した存在であり、あり得たかもしれないが決して選択されることの無かった自分自身の影である。”結び”の三葉にとって瀧くんの持つ”切断”の傾向は、三葉自身の影であり、欠けているものーつまり、かたわれなのだ。

 

  • 瀧と”切断”

続いて、瀧くんの視点で考えてみる。

瀧は都会育ちの男の子。瀧くんの持つ”切断”の属性は、例えば仲間からの遊びの誘いを「今日バイトだから」と”断る”行動に表されている。奥寺先輩から語られる「瀧くんケンカっぱやいから......」というのも堪忍袋の緒が切れやすいという、瀧くんの”切断”の属性を暗示している。 

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瀧くんの家庭は恐らく父子家庭であり、お母さんの姿は作中に描かれていない。ここに語られる”母の不在”は、女性性の象徴、母性原理としての”結び”が、瀧くんに欠如していることを暗示している。そして、欠けた”結び”を求める瀧くんの願いが、年上の奥寺先輩への憧れにも繋がっていったんじゃないかと推察する。 

瀧(三葉)が取った行動も、三葉(瀧)が取った行動と同様に捉えられる。

瀧(三葉)のとった象徴的な行動を抜き出してみる。

奥寺先輩の”切られた”スカートを糸で縫いつける。(結び)

奥寺先輩との仲を近づける。(結び)

デートの約束を結ぶ。

etc...

これら”結び”に象徴される女性的な傾向は、やはり瀧くんにとって欠けているものであり、元々の潜在的な願望の顕れとして捉えることが出来ると思う。

二人にとって、互いは互いの影、つまり無意識の願望と深く結びついた自分の半身であり、自身に欠けているものを持った理想の男性像、女性像でもあるのだ。このことが、相手が瀧でなければならなかった理由であり、二人が初め「あの男は!」「あの女は!」と反発しあいながらも、次第に惹かれ合っていく必然性なのだと考えられる。 

  • 邂逅のシーン

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このことを踏まえた上で、縁での邂逅のシーンについて観てみると、あの瞬間は自分自身の影と初めて向き合った瞬間でもあったんだと考えられる。

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下敷きになるのは、授業のシーンで語られる黄昏時の語源の内容である。

「黄昏時は夕方、昼でも夜でもない時間。世界の輪郭がぼやけて、曖昧になる時間」

黄昏時の語源は”誰そ彼”である。お前は誰だ?君の名前は?という問いかけへの繋がりを予感させる。 

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黄昏時は逢魔時とも言われ、この世のものではないものと出逢う時間でもあると示される。ここで出逢う”魔”とは何だろうか? 魔が差すという言葉を引き合いに出して考えてみたい。ふとした拍子に、普段なら考えられないような行いをしてしまうという意味の言葉である。この瞬間はつまり、自分の中に在って自分では無い、普段は眠らせている半身の存在ーすなわち影の存在が、表出した時では無いだろうか。(でも、魔=出会うはずのない異界の存在と捉えて、3年間の時間を越えた存在、あるいは生者にとっての死者、死者にとっての生者という風に観たほうが素直だししっくり来る……)

類語の最後が、”かたわれ時”という言葉で締めくくられるのは真に象徴的だと思う。 

邂逅のシーンに戻って考えたい。

時間は黄昏時、昼と夜の境界の時間である。境界という意味で、場所にも注目してみたい。2人の立つ場所は産霊の御神体の湖のほとり、つまり水と大地の境目である。

この場所があの世とこの世の境目でもあることは、作中お婆さんの口から語られている。更に、雲を見下ろすような山の頂上は、空と大地の境目であるとも言える。

この場所は水、空、あの世3つの境界なのだ。

ここで水が象徴するものは母性原理としての”結び”で、天が象徴するものは父性原理としての”切断”に他ならない。この両属性がバランスよく整ってこそ、高い次元での安定性が保たれるのであり、三葉の”結び”がより高次元の”産霊”へと統合される前に、必ず”切断”という手続きが踏まれる必要があった。

境界の上で、世界の輪郭がぼやける黄昏時に、この世ならざる魔ーすなわち自分自身の半身、影に出逢う。二人は入れ替わるべくして入れ替わり、出会うべくして出会ったのだ。