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アニメや本についての雑記です。オタクが書いてます。

『心が叫びたがってるんだ』 ”呪い”という移行対象と結末の違和感

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 文章にいかつい言葉や言い回しが使われる理由は、書かれてる内容の幼稚さや未熟さを覆い隠すという点にあるんじゃないかと思う。ホントは情けなくなるくらいどうしようもない何かを、恥ずかしいからゴテゴテした文体でなんとか覆い隠そうと努力した痕跡が、そこにある。自分の書いた文章を自分で読んでいて、ふとそう思った。あぁ……。

 例えば思春期の頃、自分の見た目やファッションにとても強く執着したり、逆に嫌悪したりするのも、それが理由の一つになっているのかもしれない。この時期はとにかく内面と外面が屈折した結びつき方をして、極端にふれがちだが、それも多くの人々が人生のある時期に経験し、通ってきた道だと信じる。(自分だけじゃないと思いたい)

 『心が叫びたがってるんだ』もそんな”思春期の呪い”をテーマにしたお話と言えるだろう。

 子供の頃、順はおしゃべりをキッカケに自分の家庭を壊してしまう。浮気が結果的にバレたお父さんは、「全部お前のせいじゃないか」とに言い残して、家を出ていってしまった。失意の底で、王子様による救いを夢見る順。しかし、そんな順が山で出会ったのは王子様ではなくヘンな玉子の妖精だった。玉子の妖精は、順のおしゃべりを呪いで封じて、の言葉をたまごの殻の中に閉じ込めてしまう。喋るとスクランブルエッグになるぞ!と玉子は順に脅す。こうしてはおしゃべりの出来ない女の子になってしまう。幼い順が空想の中で編み出した、この不思議な玉子の妖精との出会いはなんだったのだろうか。

 恐らく、決定的だったのがその前の両親の言葉だ。お母さんは「順、それ以上喋っちゃ駄目よ」と玉子焼きで順の口を塞ぐ。”おしゃべりを封じるモノ”としての玉子の元型が、このシーンからは読み取れる。父親は浮気相手の元へ出ていく。失意の底で順は家を飛び出すが、飛び出したところで帰るべき家庭はもはや残されて居ない。一度口から出た言葉を無かったことには出来ないし、壊れた家庭がもとに戻ることもない。スクランブルエッグが元の玉子の形に戻ることはないのだ。壊れてしまった家庭は、どんなに辛くても順にとっていつか着地しなくてはならない現実だ。しかし、幼い順にとってそれは辛く受け入れがたいものだった。だからこそ、順は現実ではない空想の中に救いを求めて、王子様との出会いを夢見るのだ。幼い順にとって、それは切実な願いだった。そして、順は王子様と出会うため、お城(ラブホテルである)を目指し山を彷徨う。玉子の妖精は、そんな順の前に現れるのだ。

 発達心理学に移行対象と呼ばれる概念がある。母親と離れた子供は、不安を癒やすために、ぬいぐるみや毛布や空想の友達に愛着を寄せることがある。このぬいぐるみが移行対象である。この時、ぬいぐるみや毛布、空想の友達の役割は、子供にとって失ってしまった何か、つまり母親との一体感を補償するための、代償として存在する。失ったものを、”そのものではない何か”で補償するのだ。

 移行対象は、子供が母親を”良い面も悪い面も持ち合わせる他人”として受け入れるまでの間のいっとき、側に寄り添って、子供の不安を癒やしてくれるのだ。しかし、移行対象は成熟のためにいつかは離れ無くてはならない存在でもある。受け入れることを留保した現実に、いつかは帰着しなければならない時が来る。この”移行対象との分離”に主題を置いたのが、ここさけじゃないかと思う。

 ここでは、玉子の呪い、つまり”順を包む玉子の殻”を移行対象として捉えたい。映画の呪いからはネガティブなイメージを連想するが、玉子の殻には来るべき”殻を破る瞬間”に備えて、それまで弱い雛を外界から保護するというポジティブな意味も併せ持つ。不安定な順にとっての空想の世界は、一時的な庇護者でもあるのだ。

 そんな彼女の殻は、王子様との出会いをきっかけにして破られる。王子様は順の秘密を偶然に知る。そして、順は王子様を救い、晴れて二人は結ばれる......とはならない所が、このお話の特徴であり、観ていてあれ?となる部分だと思う。

 この違和感について、「姥皮」と呼ばれる昔話を引き合いに出して考えてみたい。

「姥皮」はここさけによく似た構造を持つ昔話である。詳しいお話はこちらを参照。

nihon.syoukoukai.com

上記の姥皮は前半部分に蛇婿入譚が挿入されるタイプの話型となっている。

後半部分について、以下、構造を抜き出して比較してみる。

①主人公の娘の家からの離別(家からの分離)

②山姥と出会い、姥皮を渡され(移行対象)老婆として姿に身をやつす(仮の姿)

③長者の家で働く

④長者の息子に、姥皮を脱いだ娘の姿を観られる(真の姿を知る異性との出会い)

⑤長者の息子の病を、娘が治す(異性の救済)

⑥娘は真の姿を取り戻し、長者の息子と結ばれる

 さて、上記の構造を途中まではかなり正確にここさけは反復する。

①両親の離別、順は帰る家を失う(家からの分離)

②玉子の妖精と出会い、玉子の呪いをかけられ(移行対象)喋れない姿に身をやつす(仮の姿)

③学校に入学

④拓実と出会い、順は拓実に過去を打ち明ける(真の姿を知る異性との出会い)

⑤順と関わる中で、拓実がピアノを再び弾けるようになる(異性の救済)

 また、拓実の視点から観ても同様に姥皮の構造は起動していて、パラレルな関係になっている。

①ピアノをきっかけに両親が離別、祖父母と暮らす(家からの分離)

②ピアノが引けなくなる(仮の姿)

③学校に入学

④順に音楽室でアコーディオンを奏でる姿を観られる(真の姿を知る異性との出会い)

⑤拓実と関わる中で、順が言葉を取り戻す(異性の救済)

と、ここまではいいのだが、問題は⑥である。その後、順と巧実は結ばれること無く、お互い別々の相手の元へ行く。さらに、その相手との関係性がどうなるのかもハッキリとは示されないまま、終わってしまうのだ。以下、どうして姥皮の構造が崩され、この結末が取られたのかを考えてみたい。

 前後してしまうが、いったん冒頭に戻って考えたい。玉子の妖精との出会いのシーンで、玉子の妖精が”点”を隠して王子さまに変身する下りがある。漢字の「玉子」と「王子」のシャレになっているが、このシーンは恐らく玉子の妖精と王子様の密かな同一性を示すものとしてある。つまり、玉子の呪いも空想の王子様も、どちらも順にとっては移行対象であり、離れなくてはならない存在として描かれているのだ。順が着地しなくてはならない現実は、夢見がちに王子様と結ばれることではなく、田崎との始まったばかりの関係だった。それは、何の保証もないあやふやな未知の可能性であり、まさに現実そのものだ。

 この崩された構造には、あるメッセージ性を感じた。それは、”現実に立ち向かえ”というメッセージだ。しかし、玉子の殻を破り、理想の王子様が存在しないことを受け入れ、それでも現実の中に未知の可能性を見出す順の姿は、きっとこのアニメを観る自分のような層のーいわゆるオタク的な人々には、このメッセージにある種の受け入れ難さを感じるのではないだろうか。

完全に偏見だか、オタクは程度の違いはあるにせよ、友人や家族、学校、或いは会社など、その人の所属する現実の物語の中に、どこかで乗り切れなかった人たちなんだと思う。少なくとも著者はそうだ。現実を受け入れることを留保し、欠けた何かを抱えながら、二次元の空想の世界を消費し、想像上の一体感に身を浸し続けている。だから著者にとって、順の姿はどこか自分のパロディとして映った。

 例えば幼女とラブホテルの取り合わせや、夜の学校で周りの目を盗んで交わされる情熱的なキス、DTM研究会のいかにもな面々…こういうある種の生々しさを含んだ要素の数々も、観ていてやはり現実を強く意識させる作りになっている。このお話は、夢を魅せる話ではなく、夢から覚める話なのだ。だから主題として”移行対象との分離”が玉子と王子様の二度繰り返されなくてはならなかった。

 作中、ふれ交準備のために拓実の家にみんなで集まるシーンで、DTM研究会の岩木くんが「くま殺し」の文字が書かれたtシャツを着ている。岩木くんは二次元至上主義者のオタクである。ボーカロイドのミントさんがイメージと違う曲を歌っているのを許せないようなーつまり、想像上の一体感に浸るピュアなオタクなのだ。

 熊はしばしば移行対象の暗喩として出て来るモチーフであり(最近のアニメだとガルパンのみほとボコが分かり易い)熊殺しの儀礼が通過儀礼の中で意義を持つ事を指摘しているのがユング派のJ・ヘンダーソンである。このくま殺しtシャツは、熊殺し―つまり移行対象との分離を描く、作品全体の暗喩になっているのだ。(半分冗談です)

 言葉や音楽は人を傷つけるだけじゃなく、人を繋いでいくことも出来るということを、順と拓実は関わる中で互いに教え合う。一つずつ夢から覚めていきながら、それでも受け入れなくちゃいけない現実をより良い何かに変えていくために、順は王子様とも玉子とも別れて、殻の外へと一歩踏み出した。そんな順の姿は、まだアニメの安心毛布をしばらく手放せそうにないオタクの著者に、憧れと少しの痛みをくれるのだ。