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アニメや本についての雑記です。オタクが書いてます。

『借りぐらしのアリエッティ』と「ビン詰めのこびと」モチーフ

 

 

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先日『借りぐらしのアリエッティ』を観たんですが、とてもいい映画でした。ラストでアリエッティと翔の「別れ」をきちんと描いているのが印象的でした。「別れ」といっても、ただ悲劇的なだけの「別れ」ではなく、アリエッティと翔のふたりが互いに成長していった過程での「別れ」であるところが良かったです。決して甘くはありませんが、「成長と別離」という主題に対して真摯的なラストだったと思います。

 

それで、今日書きたい話は、作中に出てくるハルさんと「ビン詰めのこびと」というモチーフについて。家政婦のハルさんがこびとであるアリエッティのお母さんを床下で見つけ、捕まえてビンの中に閉じ込めてしまう、というあのシーンです。ハルさんめっちゃ怖かった。それから、一連のハルさんの振る舞いに感じた”不快さ”について、考えてみたら結構根が深い問題なんじゃないかと思い、この”不快さ”がなんなのかをことばにしてみたいと思います。

 

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まずは、ハルさんの「こびとをビンの中に閉じ込める」という行為について。この行為の中にはユング的な「母なるもの」の「母性の裏の顔」が象徴的に描かれているのかも知れません。

 

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ユング派は「母なるもの」について、「養い育てる側面」と「包み込み呑み込む側面」の二面性を持つ存在として説明しました。幼い子どもが成長していくためには、母親の包み込むような愛情をその身に受ける必要があります。子を「養い育てる」という好意的な母性です。しかしその好意的な母性ー母親の「包み込む愛情」は転じると、「子どもの成熟を阻むもの」ともなりえます。いつか「外の世界」へ旅立たなくてはならない子どもを、永遠にそのからだに包み込み押しとどめようとした時、母胎は子どもにとって「成熟を阻む檻」へと転化します。「母なるもの」は「死」とも接近しています。これがユング派の説明する「母なるもの」の持つ二面性です。

 

例えば、ジブリ作品の『千と千尋の神隠し』の湯婆婆と坊の関係には、ユング的な「母なるもの」のイメージが鮮明にあらわれているんじゃないかと思います。おもちゃとクッションでいっぱいの坊の「部屋」は、湯婆婆の坊を溺愛する精神性の延長であり、坊にとってまさに「成熟を阻む檻」でした。

 

ハルさんの話に戻ると、「こびと」を「ビンの中」に「閉じ込める」というハルさんの振る舞いからは、「子ども」を「胎内」に「閉じ込め」ようとする「母なるもの」のイメージを読み取ることが出来るのではないかと考えます。

 

またその前段で、ハルさんが翔の部屋に鍵を掛けるシーンが挿入されていますが、このシーンにおいても「翔」を「部屋」に「閉じ込める」ハルさんの姿から、「ビン詰めのこびと」と同様「母なるもの」を読み取れるのではないでしょうか。だからこそ、翔がアリエッティの助けを「借り」てあの「部屋」を抜け出したことは、翔の成長にとって大きな意味を持つ行動でした。

 

或いは、翔にとっての「部屋」をもう少し拡大して、療養のために訪れたあの大叔母の「屋敷」全体と捉えても良いかもしれません。翔は心臓が弱く、さらに仕事で忙しくする母親からも半ば取り残された「可哀想な子ども」です。大叔母はそういうまなざしを作中で翔に投げかけています。そして、大叔母は翔が少しでも「屋敷」の外に出ようものなら、身体に悪いから控えるように、と翔をたしなめます。

 

この「屋敷」は大叔母の精神性の延長であり、この母胎の中にとどまり続ける限り、翔はある種の「こびと」にならざるを得ません。この母―子の関係性を、翔はアリエッティに対して正確に反復しようとします。翔はアリエッティを滅びゆく小さな存在として捉え、彼女にミニチュアの「家」をプレゼントしそこに住んでもらおうとします。しかし、滅びゆく小さな存在は、この時点で翔自身の自意識でもあります。翔はアリエッティと自分を同一視していました。

 

そしてそれゆえ、アリエッティはこの翔のプレゼントを拒むのです。彼女は与えられた「家」に住まうのではなく、「家」を出て出発するという「針の道」を選択する存在だからです。

 

翔は鍵の掛けられた「部屋」をアリエッティの助けを借りることで抜け出します。ここでアリエッティが翔の「部屋」からの脱出を手助けることが出来たのは、彼女が翔に先んじて、「外の世界」への一歩をすでに踏み出している存在だからです。アリエッティはお母さんの待つ「家」を出て、お父さんに導かれ、借り―狩りの世界―外の世界へと既に足を踏み入れています。アリエッティが腰に差す「まち針」は、お父さんのリュックにつけられた「安全ピン」とは対比されるアイテムであり、彼女が「外の世界」―「針の道」を歩み始めた存在であることを暗喩しています。

 

そして「部屋」を抜け出した翔は、今度は「びん」に閉じ込められたアリエッティのお母さんの救出を手伝います。「部屋」を脱出する手続きを経たことによって、翔は今度は「手助ける側」に回っています。それまでの翔がアリエッティに示そうとした好意ープレゼントが空回りし続けたのとは違い、ここで初めて翔はアリエッティたちをちゃんと助けることが出来ました。そして最後に、翔は「屋敷」を出て手術する―彼自身も「針の道」を歩むこと決意します。危険を引き受けてなお生きることを肯定する道を、アリエッティと同様に翔は選択するのです。

 

ここからは「ビン詰めのこびと」について、あまり纏まってないですが書いてみようと思います。はじめに「ビン」をユング的な「母なるもの」の象徴かもしれないと書いたのですが、ちょっと違和感も残ります。というのも、透明で無機質な「ビン」は母性―肉感的―情緒的なイメージとは少し離れたもののように感じるからです。

 

例えば「坊の部屋」はおもちゃとクッション―湯婆婆の溺愛によって埋め尽くされたものでした。「屋敷」は情緒的な大叔母の精神性の延長であり、翔にとって療養のための場所です。こういった母性―情緒―胎内―闇―眠り―死に繋がるくらい場所と「ビン」とは、どこか結びつきづらい気がします。「ビン」とは一体何なのでしょうか。

 

「閉じ込める母性」の表象としての「部屋」は、他者性の排された閉じた空間です。母が子を包み込む、この関係性の中に他者はいません。しかし、「びん」は透明であることを考えた時に、「ビン詰めのこびと」はその外側に他者の存在する関係性を暗示してはいないでしょうか。それは、鑑賞する/されるという関係性であり、「ビン詰めのこびと」の鑑賞者という他者の存在です。ハルさんは「誰か」に見せようと思って、捕まえたアリエッティのお母さんをビンに閉じ込めたのでした。

 

実は「ビン」は極めてオタク的な欲望として読めるんじゃないか、という思いがあります。

 

「ビン詰めのこびと」を見たときに何かに似てると思い、はじめに自分が思い出したのが『gatebox』でした。『gatebox』は装置内にホログラムによって映し出された二次元キャラクター「逢妻ヒカリ」と一緒に生活を送れてしまうという現在開発中の罪深いバーチャルホームロボットです。罪が深すぎる……。

 

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思い返せば、石黒正数の『外天楼』のなかに描かれていた、ケースに入れられた観賞用の人工生命体「フェアリー」は、このハシリだったんじゃないかなあと思います。

 

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「ビン詰めのこびと」はサブカルチャーの領域で反復されているモチーフのようです。勉強不足で分からないのですが、遡れば近いものはまだまだ見つかるんじゃないかという気がします。「閉じた世界」に住まうこびとー二次元キャラー少女を鑑賞したいという欲望は、オタクにとってかなり普遍的な欲望なんじゃないでしょうか。アニメオタクとかアイドルオタクとかには顕著なように思います。「ビン詰めのこびと」が繰り返し表現されるのは、そういうオタク的欲望のとりうる形としてある程度普遍性を持つからではないでしょうか。

 

そして、「こびと」ー「フェアリー」ー「逢妻ヒカリ」ー「少女」を「びん」ー「ケース」ー「gatebox」ー「アイドル」という閉じた世界にとどめたものは、ひとつはかわいいー少女ー萌えを鑑賞し消費するというオタク的な欲望の存在、そしてその欲望を商品として形にしようとする資本ーつくり手の存在、さらに場合によっては「ビン」という閉じた世界で「こびと」のままで居続けたいという、「こびと」本人による「成熟忌避」という形での自己実現の欲望の存在、の3つがあると考えます。この三者による共犯関係が、「ビン詰めのこびと」という閉じた世界を成立させたものではないでしょうか。

 

しかし、『借りぐらしのアリエッティ』に戻ると、アリエッティのお母さんは「ビン」を抜け出すことを選びます。彼女は閉じた世界の中で「こびと」であることを選択はしませんでした。ハルさんの眼差しでは「こびと」である彼女は、しかしアリエッティの母であり「産む」という身体性を受容した大人の女性です。彼女の願いはいつか海を見ることであり、海の写真を家に貼って眺めながら日々家事をこなしていたのでした。だから彼女は翔とアリエッティの助けによって「ビン」を抜け出すし、プレゼントされた家具には多少心揺られながらも、最後は新しい家を探す度に出るのです。

 

こういうふうに考えた時に、『借りぐらしのアリエッティ』において描かれたハルさんと「ビン詰めのこびと」、そしてそこからの脱出劇は、アニメオタク的な欲望に対しての批評としても読めるような気がするのです。ハルさんの振る舞いを気持ち悪い、許せないと言って観るのは簡単です。しかしそう言って観たもの、あるいは目を背けたものの正体は、実は鏡に映し出された自分自身の姿なのかもしれない。彼女のグロテスクさは、消費という沈黙の言葉によって、自分が暗に肯定してきたものの所在なのかもしれない。そんなことを考えました。